債務整理コラム
信用をシフトさせよう
「信用」と言う単語を一部の債務者は大変に重視します。一般的に「信用」とは、相手の行動や考えを確かなものとして受け入れることです。例えばそれは「○○さんの運転技術は信用できるから」と言ったように使いますね。
しかしこれとは別に信用と言う言葉が使われることがあります。当サイトをご訪問されている方ならばすでに勘付いているかもしれませんが、ここで述べる信用とは、サラ金に対して借入ができるかどうか、また、クレジットカードが作れるかどうかなどで用いられる言葉のこと。一言でくくれば「借金が返せる人かどうか」と言うことです。
「信用」の仕組みが最もわかりやすいのはクレジットカード会社です。なぜならクレジットカード会社とは、販売信用取引を主体としている会社のことだからです。この販売信用取引とは何か。例えば沖縄に住んでいる人が、インターネットで検索して、北海道のイラストレーターにイラストを注文したとします。このとき、注文をした人とイラストを描いてくれる人との間にはメールのやり取りしかありません。これではイラストレーターが絵を描き終わってメールでデータを送っても、果たしてきちんとお金を振り込んで貰えるか心配です。逆にお金を払う側としても、お金を払った後、きちんとデータを送ってきてくれるのか、やはり心配です。これが一枚三千円程度のイラストならまだいいかもしれません。しかしそれが一枚三十万円・三百万円の高額なものとなったらどうなるでしょう。また、一枚三千円のイラストでも千枚注文した場合にはどうなるでしょう。心配で夜も眠れなくなりますね。
先のイラストの例えで「信用」を見ると、よほど相手が「信用」できなければイラストレーターも注文は引き受けられませんし、注文をした側もイラストレーターがきちんと仕事をしてくれるかどうか不安になります。このように「信用」のない状態では売買が円滑に進みません。このときに登場するのが「信用取引」つまりクレジット会社なのです。
クレジット会社は、それまでの沖縄在住の注文者の収入と、イラストレーターのこれまでの実績の双方を見極めた上で「これなら問題ない」と言うことで、少しの手数料と引き替えに、一時的に沖縄の注文者の代理人としてお金を支払ってくれます。多重債務者はよく勘違いをしますが、クレジット会社とは別にお金を貸してくれる組織であるわけではないのです。
お金を貸してくれる会社となるとこれは消費者金融、つまりサラ金です。サラ金は個人に対してお金を貸します。そのため「貸した金を返せるか」が信用の焦点となります。この信用を測るため、各サラ金会社には融資の基準が存在します。しかし、ではこの基準を満たせば必ず融資をしてくれるかと言えば、これは微妙なところ。基準ギリギリと言えるようなラインでは、サラ金会社の各担当者が感覚的に判断を下すこともあるためです。例えば「自称」一部上場企業の社員がお金を借りにきたと言う場合。確かに身分証などを見る限りは一部上場企業の社員には間違いないようです。しかし当の本人が、あまりにも服装がよれよれで異臭を漂わせ、チンピラ然としたぞんざいな口調で担当者を威嚇している場合であれば、やはり融資はできないでしょう。信用できないためです。
このように「信用」の基準は曖昧なものです。ところが、借金生活に慣れた多重債務者の方の中にはときどき目を剥く考え方をしている人がおられます。彼らは「××円借りて、○○円を返済し、そこで信用をつけて融資額を増やすことにした」と平然と述べるのです。
信用は無理に作るものではありません。また信用ができたからと思い込み、その信用を利用しようとする人との間に信用などは成り立ちません。「信用を作って借金をする」と述べている人は、サラ金会社の担当者に嘘をついたと言うことです。このような考えで借金を繰り返していれば、それは多重債務の挙句、誰も助けてくれなくなってしまうでしょう。実際、サラ金会社の側もこのような考えの人々は見飽きており、雰囲気や仕草、表情などですぐにそのような人々を見分けてしまうようなのです。これで融資を断られるのであればまだ良い方。ヤミ金に至れば「信用を作りたい」と言う債務者の意識を逆に利用して、ほとんど意味のないような低額のみを融資すると同時に、わずか数日後から威圧的な取立を行うこともよくある話です。
サラ金における「信用」とは確かに表面上は「借りたお金を返せるかどうか」です。しかしそれが「信用」の意味だと誤解すると、後にその人は「信用のかけらもない人」と言うレッテルを貼られてしまいます。信用とは、誰かが見ているか否かに関わらず、相手の期待を裏切らないことを指すのです。それは過去においても、また未来においても同じこと。
なぜこのような話をするのか。それは債務者の方が債務整理を行った後、もう二度と借金問題に関わらない「信用」のある人生を送っていただきたいと切に願っているからなのです。